廉太郎忌 (記念日 6月29日)
- 命日
- 1903年(明治36年)6月29日
- 享年
- 23歳
- 死因
- 結核
- 出身地
- 東京府芝区生まれ、大分県で育つ
- 留学先
- ドイツ・ライプツィヒ音楽院(1901年)
- 代表作
- 「荒城の月」「花」「箱根八里」
1901年(明治34年)6月、瀧廉太郎はドイツのライプツィヒ音楽院に入学しました。当時21歳、文部省の派遣留学生として単身渡欧した彼は、すでに「荒城の月」「花」を世に送り出した作曲家でしたが、さらに本場の音楽教育で研鑽を積もうとしていました。しかし入学からわずか5か月後の11月、オペラ観劇の帰りに風邪をこじらせ、結核と診断されます。
帰国後の1902年(明治35年)、廉太郎は故郷の大分で静養を続けました。ライプツィヒで描いていたはずの未来——ドイツ音楽の深部に触れ、さらなる作品を生み出すという計画は、病によって断たれていきました。翌1903年(明治36年)6月29日、大分の自宅で23歳の生涯を閉じます。廉太郎忌は、この命日にちなんだ追悼の日です。
廉太郎が作曲した「荒城の月」は、1900年(明治33年)に文部省が編纂した中学校唱歌集のために書かれました。作詞は土井晩翠で、廃城の月夜という情景が歌われています。廉太郎が着想の源としたのは、幼少期に暮らした大分・竹田の岡城址とも、父の赴任先であった富山城址とも伝えられています。どちらが正確かは定説がなく、その余白も含めて長く親しまれてきた曲です。同年に発表された「花」は、隅田川の春の情景を詠んだ武島羽衣の詩に曲をつけたもので、組曲「四季」の冒頭を飾る一曲です。西洋の和声を取り入れながら日本語の抑揚を活かした旋律は、明治の音楽教育のなかで広く歌われ、現在も春の定番曲として残っています。廉太郎の作品はいずれも短期間に集中して書かれており、留学前後の数年が創作の中心をなしています。
瀧廉太郎は1879年(明治12年)、東京・芝に生まれました。父は旧日出藩士で、廉太郎は幼少期を父の転勤に伴って大分や富山など各地で過ごしています。東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に進学後は頭角を現し、卒業後は同校の助教授となりました。留学はその直後のことです。結核によって帰国を余儀なくされてから命日まで、9か月ほどしかありませんでした。
大分県竹田市の岡城址には廉太郎の銅像が建てられており、毎年6月29日に追悼行事が行われています。23年という短い生涯に残した作品は多くありませんが、その試みは日本の音楽に確かな痕跡を残しています。
6月29日の他の記念日
6月29日のカレンダー情報
6月の二十四節気・雑節
- 芒種(ぼうしゅ) 6月6日(土)
- 夏至(げし) 6月21日(日)
- 入梅(にゅうばい) 6月11日(木)