近江日野商人の日 (記念日 2月5日)
- 記念日の日付
- 2月5日
- 制定者
- 滋賀県蒲生郡日野町
- 認定機関・年月日
- 日本記念日協会(2024年7月19日)
- 日野大当番仲間の設立
- 元禄3年(1690年)
- 大寄り合いの継続年数
- 約200年
- 日野商人の代表的商品
- 萬病感應丸(合薬)、日野椀(漆器椀)
江戸時代の日野では、諸国を行商に回っている商人も、毎年2月5日だけは里に帰ってきました。羽織袴を正装に、町内の寺院へ集まって情報を交わし、課題を話し合う「大寄り合い」が200年近く続いたのです。
この大寄り合いを取り仕切っていたのが、元禄3年(1690年)に組織された「日野大当番仲間」です。江戸時代の商人組合といえば、同業者が市場の利益を守るために結んだ株仲間が典型でした。ところが日野大当番仲間は、業種をいっさい問わず、日野という地縁で結ばれていれば掛銭を払うだけで誰でも入れる開かれた組織でした。これは全国的にも極めて珍しい形態です。組合員には主要街道の宿場町に設けられた指定の旅籠と、広域の流通業者ネットワークが開放されました。孤独になりがちな一人行商を、仲間の力で下支えする仕組みが整えられていたのです。
日野商人のルーツは、戦国武将・蒲生氏郷の城下町にまでさかのぼります。氏郷が会津へ国替えになり城下町が衰退すると、生計を求めた人々は行商に乗り出しました。そこで生まれたのが「日野の千両店」と呼ばれる商法です。1,000両を蓄えたら大店を一つ構えるのではなく、各地に小型店舗を次々と開いて事業網を広げていく戦略で、大阪や江戸に巨大な本店を設けた八幡商人とは対照的なやり方でした。
行商の主力商品は最初、日野椀と呼ばれる漆器椀でした。しかし元禄期に他国産との競争に押されると、初代正野玄三が1701年に合薬の製造を開始し、1714年に「萬病感應丸」を完成させます。この薬が全国に広まり、日野商人の看板商品となりました。行商のルートも独特で、日野商人は東海道ではなく中山道を選んでいます。道こそ険しいものの関所が少なく移動日数が読みやすいため、商人にとっては計画が立てやすかったのです。中山道の宿場町に点在する「日野商人定宿」を頼りに、彼らは全国の市場へと商品を届けていきました。
日野商人が実践した商業哲学が「陰徳善事」と「三方よし」です。陰徳善事とは、見返りを求めず目立たない善行を積み重ねること。三方よしは売り手・買い手・世間すべてが満足できる商売を目指す近江商人の理念として広く知られています。滋賀県蒲生郡日野町はこの精神と歴史を次世代へ継承するため、2月5日を「近江日野商人の日」として制定し、2024年7月19日に日本記念日協会の認定を受けました。
2月5日の他の記念日
2月5日のカレンダー情報
2月の二十四節気・雑節
- 立春(りっしゅん) 2月4日(水)
- 雨水(うすい) 2月19日(木)
- 節分(せつぶん) 2月3日(火)