裏切りの日 (記念日 6月2日)
- 発生年月日
- 1582年6月2日(旧暦・天正10年)
- 場所
- 京都・本能寺
- 信長享年
- 49歳
- 謀反の将
- 明智光秀
- 信長最後の言葉
- 「是非もなし」
- 現在の本能寺
- 京都市中京区に現存(事変後に移転)
「是非もなし」——天下統一目前の武将が最期に残したとされる言葉です。1582年(天正10年)6月2日(旧暦)の早朝、京都・本能寺に宿泊していた織田信長は、臣下・明智光秀の軍勢に突如襲われました。この日を「裏切りの日」と呼ぶのは、後世の人々が歴史上もっとも衝撃的な謀反として語り継いできたからに他なりません。
事の発端は中国地方での戦局でした。毛利氏と対峙していた羽柴秀吉から援軍を求められた信長は、自ら出陣を決断。側近の者わずかを連れ、本能寺に入りました。一方、出陣を命じられた明智光秀は丹波亀山城を発ちましたが、進軍の途中で突如軍を京へ向け転じます。この決断の真意は今もなお歴史の謎として残っており、光秀謀反の動機については怨恨説・政治的謀略説・共謀説など諸説が挙げられています。信長から繰り返し叱責を受けたという怨恨説がよく知られていますが、足利将軍家や朝廷、あるいは秀吉・家康との連携を疑う説まで、400年以上を経た現在も決定的な結論は出ていません。
本能寺に火の手が上がると、信長は近侍の森蘭丸に誰の軍勢かを問いました。光秀と聞いた信長は「是非もなし」と一言答え、みずから弓を手に取って応戦したと伝えられています。多勢に無勢、信長は炎の中に倒れ自害。遺体は発見されず、享年49歳とされています。
本能寺は現在も京都市中京区に存在し、信長の廟所が境内に設けられています。事変後に現在地へ移転したため、変が起きた旧本能寺跡は別の場所に石碑が立てられています。なお、光秀はこの変からわずか11日後、山崎の戦いで秀吉に敗れ落命しており、天下取りの夢は儚く散りました。多くの歴史ファンが今も両者ゆかりの地を訪れています。
参考リンク
6月2日の他の記念日
6月2日のカレンダー情報
6月の二十四節気・雑節
- 芒種(ぼうしゅ) 6月6日(土)
- 夏至(げし) 6月21日(日)
- 入梅(にゅうばい) 6月11日(木)