集団疎開の日 (記念日 6月30日)

集団疎開の日
閣議決定日
1944年(昭和19年)6月30日
対象学年
国民学校初等科 第3〜第6学年
対象都市数
京浜・名古屋・阪神・北九州など12都市
疎開先数
全国約7,000か所
疎開児童数
1945年春時点で約40万人超
実施要綱決定
1944年7月17日、即日実施

1944年(昭和19年)6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定した。同年6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸。サイパンからは長距離爆撃機B-29が日本本土の主要都市を射程に収めることができ、大規模な空襲はもはや時間の問題でした。政府は子どもたちの命を守るため、都市部の児童を地方へ移す決断を下したのです。

対象となったのは、京浜・名古屋・阪神・北九州など12の重要都市に住む国民学校初等科の第3学年から第6学年までの児童です。まず親戚や知人を頼る「縁故疎開」が強く推奨され、縁故先のない児童については学校単位での「集団疎開」が実施されました。7月17日には具体的な「学童疎開実施要綱」が定められ、即日実行に移されています。

集団疎開先の多くは地方の寺院でした。本堂に布団を並べ、子どもたちは級友や教師と共同生活を送りました。親元を離れた寂しさに加え、疎開先での生活は過酷なものでした。食糧事情は日を追うごとに悪化し、朝は薄いおかゆを椀に一杯だけ、昼食は抜きという日も珍しくありません。空腹に耐えかねた児童が野山で桑の実を探したり、お手玉の中の小豆を取り出して食べたりしたという証言も残っています。

全国約7,000か所に疎開先が設けられ、1945年(昭和20年)春には約40万人を超える児童が疎開していたといわれています。しかし疎開先でも空襲や物資の不足に見舞われた地域があり、安全が保障された場所ばかりではありませんでした。同年8月の終戦後、子どもたちは順次帰宅しましたが、空襲で帰る家を失っていた児童も少なくありません。

この日は、戦時下の子どもたちが経験した現実を静かに振り返る日です。

6月30日のカレンダー情報

六曜 友引
月齢 15.0(満月)

6月の二十四節気・雑節

  • 芒種(ぼうしゅ) 6月6日(土)
  • 夏至(げし) 6月21日(日)
  • 入梅(にゅうばい) 6月11日(木)