光晴忌 (記念日 6月30日)
- 本名
- 安和(やすかず)
- 生年月日
- 1895年(明治28年)12月25日
- 没年月日
- 1975年(昭和50年)6月30日(79歳)
- 出身地
- 愛知県海部郡越智丘村(現・津島市)
- 代表的な受賞
- 読売文学賞(1954年)
- 実弟
- 大鹿卓(小説家)
1975年(昭和50年)6月30日、一人の詩人が東京・吉祥寺の自宅で息を引き取りました。金子光晴、79歳。気管支喘息による急性心不全でした。軍国主義が日本を覆い尽くした時代に、ただ一人の詩人として「反戦」を貫いた人物です。
金子光晴は1895年(明治28年)12月25日、愛知県海部郡越智丘村(現在の津島市)に生まれました。本名は安和(やすかず)。実弟は後に小説家となる大鹿卓です。暁星中学を卒業した後、早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部と三つの学校に籍を置きますが、いずれも中退しています。20歳の頃に大病を患い、病床で詩と出会ったことが、その後の人生を決定づけました。
初期の作風はフランス象徴派や高踏派の影響を受けた華麗なもので、第1詩集『赤土の家』、続く『こがね蟲』で詩壇の注目を集めます。この頃、女学生だった森三千代と出会い結婚。しかし生活は困窮を極め、活路を求めて上海へ渡ります。昭和3年(1928年)から約5年間、妻とともにアジアからヨーロッパへと放浪の旅を続けました。マレー半島、ジャワ、シンガポール、そしてパリ。この体験は『どくろ杯』『ねむれ巴里』『マレー蘭印紀行』といった自伝的作品に結実しています。
金子光晴の名を決定的にしたのは、戦時下の反戦詩です。
日中戦争から太平洋戦争へと突き進む時代、翼賛体制に多くの文学者が協力する中、金子は『落下傘』『蛾』といった詩集で権力への抵抗を表明しました。直接的なスローガンではなく、人間の肉体や欲望を生々しく描くことで、戦争という巨大な暴力の本質をえぐり出す手法です。さらに、自身の息子に赤紙が届いた際には徴兵忌避を手助けしたとも伝えられています。戦後に刊行された『人間の悲劇』は、戦時中に書き溜められた反戦詩を集めたもので、1954年に第5回読売文学賞を受賞しました。
晩年も旺盛な執筆活動を続け、1972年には『風流尸解記(しかいき)』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。放浪と反骨の詩人は、最後まで自らの言葉を手放しませんでした。
6月30日の他の記念日
6月30日のカレンダー情報
6月の二十四節気・雑節
- 芒種(ぼうしゅ) 6月6日(土)
- 夏至(げし) 6月21日(日)
- 入梅(にゅうばい) 6月11日(木)