学制発布記念日 (記念日 8月2日)
- 制定年
- 1872年(明治5年)8月2日
- 根拠法令
- 明治5年8月2日太政官第214号
- 学区構成
- 大学区8・中学区256・小学区53,760
- 小学校制度
- 下等小学4年・上等小学4年の4・4制
- 公布翌年の就学率
- 28.1%(男子約40%、女子約15%)
- 廃止
- 1879年(明治12年)9月29日
全国に小学校を5万3760校——。1872年(明治5年)8月2日に公布された学制は、当時の日本の村の数すら上回るほどの壮大な計画を掲げていました。この日、太政官布告とともに発せられた「被仰出書(おおせいだされしょ)」には、「学問は身を立るの財本」であり、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と記されています。身分も性別も関係なく、すべての国民が学ぶべきだという宣言でした。
学制はフランスの学区制を手本に設計されました。全国を8つの大学区に分け、それぞれに大学校1校を設置。大学区をさらに32の中学区に細分し、中学区ごとに中学校1校。そして中学区を210の小学区に分割し、各小学区に小学校1校を置く構想です。計算上、大学8校、中学校256校、小学校5万3760校。まだ鉄道すら新橋〜横浜間しか開通していない時代に、途方もない青写真が描かれたのです。
小学校は下等小学4年・上等小学4年の「4・4制」で、下等小学を義務教育としました。教育内容も画期的で、読み書きそろばんに加えて地理、物理、博物といった西洋由来の教科が導入されています。
しかし理想と現実の差は大きいものでした。学制公布翌年の就学率はわずか28.1%。男子が約40%だったのに対し、女子は15%程度にとどまっています。農村部では子どもは貴重な労働力であり、授業料も各家庭の負担だったため、学校を建てても通わせる余裕がなかったのです。各地で学校建設への反対運動や一揆が起きた記録も残っています。
それでも明治8年(1875年)には全国で約2万4500校の小学校が開設され、就学率は35%まで上昇しました。学制そのものは1879年(明治12年)の教育令公布によって廃止されますが、国民皆学という理念はその後の日本の教育制度に脈々と受け継がれていきます。わずか7年間の短命な法令が、日本の近代教育の礎を築いたのです。
8月2日の他の記念日
8月2日のカレンダー情報
8月の二十四節気・雑節
- 立秋(りっしゅう) 8月7日(金)
- 処暑(しょしょ) 8月23日(日)