石鼎忌 (記念日 12月20日)

石鼎忌
生没年
1886年3月19日〜1951年12月20日(享年65歳)
本名
原 鼎(はら かなえ)
出身地
島根県簸川郡塩冶村(現:出雲市)
主宰誌
『鹿火屋(かびや)』(1921年〜)
代表句集
『花影(かえい)』(1937年)
季語分類
冬の季語(忌日)

65歳で世を去った俳人・原石鼎が亡くなったのは、1951年(昭和26年)12月20日のことです。島根県簸川郡塩冶村(現:出雲市)に生まれ、本名を鼎(かなえ)といい、代々医師の家に育ちました。家業を継ぐべく京都医学専門学校(現:京都府立医科大学)に進学したものの、俳句への情熱を抑えきれず2年連続で落第し、放校処分という異色の経歴を持ちます。放浪の末に俳壇の重鎮・高浜虚子に見出された石鼎は、1915年(大正4年)に上京してホトトギス社に入り、虚子の口述筆記や雑用を担当しながら腕を磨きました。村上鬼城、渡辺水巴、飯田蛇笏、前田普羅とともに大正期の『ホトトギス』を代表する五人の一人として数えられ、「花鳥諷詠」の精神を突き詰めた格調高い作風で知られています。

1921年(大正10年)、俳人・小野蕪子から俳句雑誌『草汁』を譲り受けた石鼎は、これを『鹿火屋(かびや)』と改称して主宰します。鹿火屋とは鹿の害から田畑を守るために火を焚く小屋のことで、その名にも日本の農村風景への深い眼差しが滲みます。ところが1923年(大正12年)の関東大震災を境に神経衰弱が悪化し、虚子との関係も修復しがたいほど悪化して絶縁に至りました。

病と孤独に苦しみながらも後進の指導を続けた石鼎の辞世は「松朽ち葉かゝらぬ五百木無かりけり」。無数の松の大木に一枚も朽ち葉が引っかかっていない、という冷えた光景を詠んだこの一句は、晩年の境地をそのまま写したかのようです。句集『花影(かえい)』(1937年)はその代表作として今日も読み継がれており、没後は妻のコウ子、さらに養子の原裕(はら ゆたか)が『鹿火屋』の主宰を受け継ぎました。石鼎忌は冬の季語として歳時記に刻まれています。

12月20日のカレンダー情報

六曜 仏滅
吉日 天恩日
月齢 11.1

12月の二十四節気・雑節

  • 大雪(たいせつ) 12月7日(月)
  • 冬至(とうじ) 12月22日(火)