六日年越し (年中行事 1月6日)
- 春の七草
- セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ
- 日本への伝来
- 平安時代初期、中国(唐)から伝わり宮中の「若菜摘み」と融合
- 粥への変化
- 室町時代に汁物から粥の形式へ変化
- 江戸時代の制度化
- 幕府が人日を五節句に定め庶民に普及
- 地方での呼称
- 「神年越し」「女の年越し」「馬の年越し」など
- 文献記録
- 清少納言『枕草子』に六日に若菜を用意する様子が記録
「七草なずな、唐土の鳥と日本の鳥と、渡らぬ先に…」——正月六日の夜、人々はまな板の上に七草を並べ、包丁でリズムよくたたきながらこの唱え言葉を繰り返しました。これが「六日年越し」です。七日正月(人日の節句)の前日にあたる正月六日を年越しとして祝い、翌朝の七草粥の準備をする行事です。
七草粥の起源は中国の唐代に求められます。一月七日の「人日」に、七種類の野菜を入れた汁「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」を食べて無病息災を願う習慣が生まれました。これが平安時代初期に日本へ伝わり、もともと宮中にあった「若菜摘み」の風習と融合しながら定着していきます。清少納言の『枕草子』にも「七日の日の若菜を、六日人の持て来さわぎ取り散らしなどするに」と記されており、六日のうちに若菜を用意する慌ただしい様子が描かれています。汁物だった料理が現在のような粥の形になったのは室町時代とされています。
六日年越しが全国的な年中行事として広まった背景には、江戸幕府の制度化があります。幕府は人日を「人日の節句」として五節句の一つに定め、公式な式日としました。この制度化によって武家社会から庶民へと習慣が広がり、七草粥を一月七日に食べるという文化が日本全国に根づきました。六日の夜に七草を準備する「六日年越し」も、その流れの中で各地に伝わっていったとみられます。
六日年越しには地方によって「神年越し」「女の年越し」「馬の年越し」などさまざまな呼び名がありました。七草をまな板に載せ、神棚の前で包丁でたたきながら唱える行事は、単なる料理の下ごしらえではなく、邪気を払い、渡り鳥がもたらすとされた疫病を遠ざけるための呪術的な所作でした。「唐土の鳥と日本の鳥が渡って来る前に」というのは、大陸から疫病が飛来することへの恐れを反映しています。
七草はセリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七種です。いずれも正月の菜食として胃腸を整える効果が期待されており、祝い膳が続いた後の体をいたわる意味も込められていました。呪術的な行為と実際の健康効果が重なり合うところに、この行事の奥行きがあります。
現代では六日の夜に包丁でたたきながら唱え言葉を唱える家庭は少なくなりましたが、七草粥を食べる習慣は広く残っています。その前夜にあたる六日年越しは、年の始まりに邪気を払い、新しい一年の健康を祈った先人の知恵が凝縮された行事です。
1月6日のカレンダー情報
1月の二十四節気・雑節
- 小寒(しょうかん) 1月5日(月)
- 大寒(だいかん) 1月20日(火)
- 冬の土用(どよう) 1月17日(土)